【昔と今】神戸あれこれ(2/3)

 さて「灘区」へ行ってみましょう。

 現在の灘区の町名地図です。
灘区図赤線.jpg

 神戸は他の都市に比較して「通り」という「町名」の多いところです。特に灘区は海岸から山裾までずーっと坂の街です。等高線に沿ったような形で横に長く「○○通り」が並んでいます。

 赤線を付けた町は私や親族が住んでいたところです。「灘南通」は幼稚園から小学3年生まで、「岸地通」は小学5年生から中学1年まで、「篠原南町」は中学1年生、「水道筋」の灘警察前が中学3〜4年生、この後「姫路」に一家疎開、空襲で焼けて「加東郡市場村」、戦後「水道筋」に戻って来て大学1年生で「大阪」へ一家転居するまで居ました。

 「船寺通」には伯父が「質屋」を営んでいたことがあり、その伯父はその後「福住通」に移り、戦後は「大石北町」で「貸本屋」をしていました。ここには母亡き後弟が預けられていました。「福住通」には戦後次兄が結婚して一時「貸本屋」をしていました。

 水道筋3丁目の「軒店古本屋→貸本屋」が一家の支えでした。

●水道筋(すいどうすじ):灘区まちづくり課によると、水道工事は1910(明治43)年ごろから始まったらしい。西宮市から西にまっすぐ延び、大正時代に入ってこの地に水道管が敷設された。18(大正7)年の神戸市議会の決議を経て、水道管の上に道ができた。いつしか人々は「水道筋」と呼ぶようになり、正式な町名になった。商店が集まり、周辺住民の「台所機能」として市場が栄えた。……今も栄えています。
水道筋工事写真.jpg

 水道筋商店街は、阪急王子公園駅から都賀川まで7つの商店街と4つの市場が東西に細長く連なる街です。現在500余の店が軒を連ね、そのどこか懐かしくも暖かな雰囲気の中で食事や買い物を楽しむ地元客でいつも賑わいと活気に満ちています。およそ80年もの歴史を持つ水道筋商店街。1958年(昭和33)には神戸でも有数の長さの全長約450mのアーケードが完成しました。
水道筋アーケード.jpg


●西灘村→灘区頃の地図
西灘村の地図生田川.jpg

 西灘村時代の「旧村」か「字(あざ)」などが記してあったので「赤丸」で囲みました。海岸沿いが開けていたようで、西から「岩屋」「森」「味泥」「大石」などいまは「町名」として残っています。「灘区灘南通3丁目」にいた頃「祭り/御輿」行列に参加しましたが、「森の御輿」と呼んでいました。山の方へ「原田」「稗田(ひえだ)」「鍛冶屋」。原田は弟が通った新制中学が「原田中学」でした。私は「小学5年生6年生は「稗田小学校」に通いました。
「畑原」は前にも書いたお友達が住んでいた「畑原市場」。「上野」や「五毛」は坂の上という感じでした。「五毛天神」があります。ケーブルカーで上れる「摩耶山」そこの「忉利(とうり)天上寺」日本で唯一摩耶夫人を祀る寺)。

●忉利(とうり)天上寺:仏教で六道輪廻(天、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄)の内の「天」も数々あり、「忉利(とうり)天」もそのひとつで、釈尊を生んだ摩耶夫人は7日後に死去しましたが、この天に転生したとされています。因みに「弥勒菩薩」は、釈迦の入滅後56億7千万年後の未来にこの世に現われるとされますが、それまでは「兜率(とそつ)天」で修行しているといわれます。

 地図には「都賀(とが)川」とありますが、私達はその下流の「大石(おおいし)」をとって「大石川」と呼んでいます。この川から東も灘区ですが元「六甲村」です。「石屋川」がその東端です。海岸沿いは「新在家(しんざいけ)」、ここから東は、いわゆる「灘五郷」の酒処です。「西郷町」ここは小さいが独立した「西郷村」でした。上へ上がると「河原」これは今「上河原(かみがわら)通」「下河原通」として残っています。「都賀」の名が見えますがここは「被差別部落」があったところで、今は「町名」が残っていません。水道筋に住んでいた頃、川向こうは怖くて避けていました、もう少し北の「篠原」地区と思っていました。「篠原」は後に高級住宅地になりました。

●船寺(ふなでら)八幡神社:灘小学校の南側大石川に近いところに「東向き八幡」といって、社殿が東面していました。此処は境内が広く「三八(さんぱち)」だったか「一六(いちろく)」だったか?夏は5日毎に境内に「夜店」が出ました。最近「グーグルマップ」でみると随分境内が狭いので、調べたら空襲で焼けて、その後小さく再建されたことが判りました。街や建物はドンドン変わっても、神社や学校は変わらないと思ったのですが、そうではありませんでした。昔は「船寺」というお寺と対(つい)であったため、参拝者が拝礼する方角が「西方浄土」に向かうよう東向きに建てられたと云われます。毎月1日には、小学校から団体でお詣りしたように思います。

●敏海(みぬめ/みるめ)神社:ここは、やや西寄り国道2号線(阪神国道)に南面した神社で、今も鬱蒼とした森の囲まれて安泰です。灘南通3丁目の家からは約1キロありますが、よく境内へ遊びに行きました。「かくれんぼ」「鬼ごっこ」など、神社やお寺の境内は格好の遊び場所でした。延喜式神名帳に『摂津国八部郡(ヤタベノコホリ)汶売(みぬめ)神社』とある式内社。古いです。

 奈良時代以前(6~7世紀)の当地が海に突きだした高台で、その海辺を“敏馬の浦”、その東側が“敏馬の泊”(由緒には「神戸最初の港」とある)として知られていたことからみて、港の守護神としての水神「美奴売(ミヌメ)神」を祀ったのがはじまりと推測されています。突き出た東側は「風よけ」で停泊地に適しています。実は「兵庫津」も「和田岬」と「湊川河口の洲」の間の凹みで「天然の良港」なのです。

●脇浜(わきのはま):灘区の西端は「岩屋」ですが、その西隣は「葺合区脇浜町」です。この名は「敏海の浜」の「脇(わき)にあった浜」から来ているそうです。ここには小学5年生にときチョット住んでいました。大きいゴム工場「ダンロップ」があったのを覚えていますが、今「グーグルマップ」で見ると「住友ゴム工業」の「本社ビル」が聳えています。
【「脇浜」のこと】https://romaneko.at.webry.info/201511/article_7.html?pc=on参照。

 ここで、もと西灘村だった範囲の「小学校」のことです。私が一年生で入ったのが「灘小学校」六年生卒業したのは「稗田小学校」。実はこれらは元は「西灘第一尋常小学校」「西灘第二尋常小学校」だったのです。

 明治17年に「開盛小学校」として開校された「西灘尋常小学校」は大正10年に「西灘第一尋常小学校」と改称し、同時に「西灘第二尋常小学校」(後の「稗田校」)が新設されました。昭和4年には「西灘第三尋常小学校」(後の「摩耶校」)が新設され、そして昭和7年「福住尋常小学校」が新設され、この時、前各校が改称されました。私の弟は「福住小学校」でした。挿絵はこれらの所在地を示していますが。これで見て判るように、人口は西国街道沿いから、徐々に北の方に発展増加していったようです。
西灘村小学校.jpg

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 1

なるほど(納得、参考になった、ヘー)

この記事へのコメント

プロフィール

ニックネーム:
ろまねこ
性別:
出身地:
神戸
居住地:
藤井寺
趣味:
スケッチ、水彩、
読者メッセージを送る