【雑感】劇場プログラムは語る(6)レオニード・クロイツア演奏会

 1951年7月「大阪朝日会館」での「レオニード・クロイツア滞日20周年記念連続演奏会」の「第3回」目のプログラムです。

 戦中戦後に日本で活躍されたピアニストです。最近「クロイツァーの肖像~日本の音楽界を育てたピアニスト」~ 単行本 – 2016/3/18
萩谷 由喜子 (著)によって、その業績がまとめ紹介されました。

 以下、ウィキペディアの抜粋です:

 レオニード・クロイツァー(Leonid Kreutzer, ロシア語: Леонид Давидович Крейцер, Leonid Davidovič Krejcer, 1884年(1883年説もある)3月13日、サンクトペテルブルク - 1953年10月30日、東京都)はドイツと日本で活躍したロシア生まれのピアニスト、指揮者。ユダヤ系ドイツ人を両親に持つ。ロシア語読みではレオニート・ダヴィードヴィチ・クレーイツェル。妻は門下生だった、クロイツァー豊子(旧姓・織本)。養女のクロイツァー涼子はソプラノ歌手。
略歴:
サンクトペテルブルク音楽院でアンナ・エシポワにピアノを、アレクサンドル・グラズノフに作曲を学ぶ。
1906年、ライプツィヒに移住。ここでアルトゥール・ニキシュに師事し、指揮を学んだ。
1908年、ベルリンに移住、このころからピアニスト・指揮者として活躍。
1911年にはモスクワで、セルゲイ・ラフマニノフ自作自演のピアノ協奏曲第2番の指揮をしたこともある。
1915年、シリンダー蓄音機にショパンのマズルカなどが録音される。おそらくこれがクロイツァーの初レコーディングとなる。[1]
1921年から1933年までベルリン音楽大学教授。
1931年、初来日。
1933年、再来日し、近衛秀麿の求めに応じて帰独せず1937年から亡くなるまで東京音楽学校(現:東京芸術大学)教授をつとめた。また、茅ヶ崎市に定住してピアニスト、指揮者として活躍。
1942年、ナチス・ドイツの欠席裁判によって国籍を剥奪され、無国籍となる。
1951年5月、滞日20年記念演奏会を開くが、この頃より体調を崩しがちになる。
1952年2月4日、門下生で東京芸術大学ピアノ科講師の織本豊子と結婚、五反田に居を移す。
1953年10月28日、青山学院講堂でのリサイタル中に心筋梗塞を起こし、2日後の30日午後6時30分、狭心症により死去。
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 上記のように、この演奏会の2年後に亡くなられています。
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 この日は「ベートーヴェンの三大ピアノ協奏曲:第三番、第四番、第五番」で関西交響楽団、指揮:朝比奈隆、客演指揮:近衛秀麿 という構成でした。
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 ここに「7月28日 たそがれコンサート:西宮球場」という予告が載っていますが、これも行きました。残念ながら「プログラム」は見当たりません。別の「プログラム」にもう少し詳しい内容が載っていました。
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